ルカ6章
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。
イエス様が麦畑を通られた時、弟子たちは、穂を摘んで食べました。穂を摘んで食べることは、律法で許されたことです。神様は、貧しい者のことを心にかけておられました。
なお、これは、麦畑の中に踏み入ったのではありません。手で摘んで食べる程度のものですから、道端から摘んだのです。
マルコ
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
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この聖句には、道を進みながら穂を摘んだと記されています。彼らは、止まることなく、穂を摘み、歩きながら手で揉んで食べたのです。
6:2 すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
パリサイ人のうちのいく人かが、その日が安息日であったので、弟子たちの行為を咎めました。それは、安息日にしてはならない労働をすることであると断じたのです。
6:3 イエスは彼らに答えられた。「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、
6:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
ダビデは、サウロから逃げる時、神の家に立ち寄り、備えのパンを食べたのです。ダビデと供の者たちは、空腹でした。その時、祭司以外は食べてはならないとされているパンを食べたのです。
食べる物がなく、これから先も旅を続けるのに空腹であるならば、食べても良いのです。途中で動けなくなるかもしれないのです。そうなったら、最悪死んでしまいます。神様は、そのように、人が生きるために必要なものを食べることを許されるのです。
なお、祭司以外は食べてはならないことは、霊的比喩であって、より高度に神に身を捧げた人が御子キリストについてより深く覚えることができることを表しています。そのために祭司以外は食べてはならないとされているのですが、それでも、空腹な者を養うためには食べても良いのです。
6:5 そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」
イエス様は、祭司が宮で仕える話をされてから、この言葉を語られました。安息日ごとに新しいパンが捧げられ、今まで机の上にあったパンは、取り下げられて、祭司だけが食べることができます。そのパンは、神の前に歩まれたイエス様を表しています。祭司は、それを食べることで、神の御子キリストを覚えるのです。その方が、神を満たされたのです。
安息日を守って聖なる日とするのは、それが贖罪の日に関係していて、その日に体が贖われ、罪が滅ぼされるからです。肉が滅ぼされて、全き安息が与えられるのです。もはや肉によっては生きないのです。それを覚える安息日には、肉のために仕事をしないのです。
そして、この贖いの根拠となるものは、イエス様の十字架の御業です。そして、人としてのイエス様は、「臨在のパン→御心のパン」が示すように、神の御心を行い、全うされた方です。その中心となるのは、御子キリストです。
6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。
6:7 律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
パリサイ人たちは、イエス様を陥れるために、イエス様を見ていました。彼らは、イエス様が安息日にその人を癒すかどうかを見ていたのです。安息日に、仕事をしてはならないという律法の規定がありますので、それを破れば、訴えることができると踏んでいたのです。
6:8 イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。
6:9 イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」
イエス様は、彼らの考えをご存知でした。イエス様の方から片手の萎えた人を癒やそうとされました。その時、イエス様は、パリサイ人たちに尋ねました。それは、安息日にイエス様がなそうとすることの意味づけを明確にする質問でした。安息日にすることとして、律法に適っていることは、善を行うことか、悪を行うことかと。また、命を救うことか、それとも滅ぼすことかと問われました。このことは、パリサイ人たちの考えの中には全くありませんでした。
パリサイ人たちは、規定を守ることに関心がありました。確かに、正しいことを行うことは良いことです。しかし、彼らは、規則をいかに守るかということを考えていたのです。安息日の本来の意味について考えて行動していなかったのです。
安息日に善を行い、命を救うことは良いことであり、律法に適ったことであり、しても良いのです。
安息日は、特に、七月十日の贖罪の日に深く関係しています。その日は、特に安息日を守るように厳しく命じられています。
レビ記
23:27 「特にこの第七の月の十日は宥めの日であり、あなたがたのために聖なる会合を開く。あなたがたは自らを戒め、食物のささげ物を主に献げなければならない。
・「宥めの日」→贖罪の日。罪を滅ぼす日。以下同様。
23:28 その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥めの日であり、あなたがたの神、主の前であなたがたのために宥めがなされるからである。
23:29 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。
23:30 だれでも、その日に少しでも仕事をする者は、わたしはその人をその民の間から滅ぼす。
23:31 いかなる仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。
23:32 これは、あなたがたの全き休みのための安息日である。あなたがたは自らを戒める。その月の九日の夕暮れには、その夕暮れから次の夕暮れまで、あなたがたの安息を守らなければならない。」
これは、罪の贖いがなされ、罪が滅ぼされる日です。イエス様が地上を統治される時、罪が除かれる日です。仕事をしてはならない理由として、その日に、神、主の前で罪が除かれるからです。すなわち、その日には、完全に肉に対して死に、神のものとされるのです。それですから、肉に関わる一切の仕事をしないのです。生活のために、肉を生かすために仕事をしますが、その肉から生じる罪が除かれるのであり、もはや、肉のために生きないようになるのです。ですから、その日には、身を戒め、肉によらない者に相応しく、自分を神に捧げるのです。そして、全き休みに入ります。もはや、肉との戦いは終わるのです。
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ですから、安息日が求めていることは、完全な贖いに相応しく生きることなのです。自分の肉のために仕事をしないのです。そして、むしろ、神の御心に適うことをすることが相応しいのです。
6:10 そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。
イエス様は、彼らを見回しました。イエス様と目があった人は、はっとしたと思います。先生が生徒に質問したときのようです。教室で、質問の後に見回していたら、自分が当てられるのではないかと、緊張するかもしれません。答えが明確にわかっていれば、平然としていられます。これは、あなたは、どう考えるのかと問うているのです。主は、答えを求められたのです。
しかし、パリサイ人は、無反応でした。イエス様が言われることが分かったのです。しかし、それに対して正しく答えることはありませんでした。
イエス様は、答えるつもりのない人、正解が分かっても同意しない人がいるのをご存知です。人は、自分が正しいと思ったら、なかなか自分の考えを変更することはありません。パリサイ人たちは、悪を図っていたのです。まともに答えるはずもありません。
6:11 彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。
パリサイ人たちは、怒りに満ちました。イエス様を陥れようとしたのに、自分たちの目論みか破綻したからです。安息日に癒したら訴えようとしていたのに、安息日に癒すことは、律法に適った正しいことだと言われ、それに反論することができなかったからです。自分たちのしようとしていることは、馬鹿げたことであることが明らかになったからです。人は、馬鹿にされたと思ったとき、非常に怒ります。イエス様にそのようなつもりはないのですが、彼らの愚かさは明らかになりました。
6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
6:13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。
イエス様は、使徒たち十二人を選ばれました。
6:14 すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、
6:15 マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった。
その名が列挙されていて、ユダについては、裏切ることが記されています。
6:17 それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。
6:18 彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。
6:19 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。
大勢の人が集まっていました。彼らは、イエス様の教えを聞くため、また、病気を治してもらうために来ていました。ある者は、自らイエス様に触ろうとしました。病気を治してもらうためです。しかし、彼らが何とかしてイエス様に触ろうとしていた姿は、何としてでも病気を治していただきたいという必死の想いの現れであることが分かります。彼らは、イエス様の御力を知りましたが、その思いはなお地上のことです。純粋に御国を思ってのことではないのです。
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。
イエス様は、弟子たちを見つめながら話されました。特に弟子たちに対して教える内容であったのです。
貧しい人たちが幸いであると言われました。「幸いです」と訳されている語は、「神の恵みが拡大される」ことを表します。すなわち、神の恵みの実現なのです。その恵みは、信仰によって受け入れるところに実現します。
この貧しいという語は、マタイでは、霊の貧しさとして使われています。ここでも、貧しさは、霊的な意味で使われています。神の言葉の前に謙る人のことで、そのような人は、神の言葉に従って生きます。それで、神の国を相続するのです。神の国の相続は、神の国において、報いとしての資産を受け継ぐことを表しています。
なお、神の国に入ることは永遠の滅びから救い出されることだけではありません。神の国は、報いの相続に関係しています。これは、信者が信仰により御霊のよって歩むことで結ぶ実に対して与えられる報いを相続することです。
6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。
飢えている今と対比されている時は、二十三節に示されているように、「その日」のことで、天において報いが大きいことが記されていて、御国で報いを受けるときのことです。今飢えていても幸いなのは、その時には、満ち足りるようになりるからです。これは、報いを受けるような歩みに対して、満ち足りることを言っています。ですから、今飢えていることは、単に食べ物がなく飢えていることを言っているのではなく、神の言葉に従って生きる上で、飢えを経験することです。
今泣いている人は、笑うようになります。泣くことは、御心を行う上で泣くことを経験することで、それに対して、満たされることで笑うようになるのです。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
人々が憎むこと、イエス様のゆえに排除されること、罵られること、名を悪様にけなされることで神の恵みが実現します。
6:23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
それらを受けたとしても、躍り上がって喜ぶことができます。それは、天において報いが大きいからです。
そして、昔の預言者は、先祖たちからそのように扱われたのです。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。
ここからは、わざわいだと、強い言葉で警告されています。イエス様がパリサイ人、律法学者の偽善を指摘した時、発せられた言葉と同じです。
富む人は、わざわいです。それは、彼らは自分の励ましを受けているからです。その励ましは、本来、神の法廷に立つ証拠を与える励ましですが、富んでいる人は、自分が祝福されているといつも思っているのです。神に喜ばれているので、富んでいるのだと。御国においても、大いなる報いが受けられると励ましを常に受けているのです。ですから、それ以上霊的に成長することを求めません。
・「哀れです」→わざわいだ。
・「慰め」→励まし。神の法廷で立つことができる証拠を持つために、直接動機づけ、鼓舞する励まし。
6:25 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。
満腹と飢えの対比でないことは明らかです。それは、肉体のことで、意味がありません。これは、満たされることと、そうでないことの対比です。今、満たされていることは、この世において満足している状態です。それ以上のものを求めることはありません。まして、御国において受ける報いを望むことがありません。その日には、どんなに求めても、満たされることはありません。報いがないのです。しかも、その状態は、永遠に続きます。
笑うことは、喜びや、満たしのしるしです。これも、この世において満たされて笑っていることを表しています。そのような人は、御国の報いを求めないのです。しかし、その日には、報いがないことで満たされず、永遠に泣くことになります。
・「満腹」→満たすこと。比喩的に満足すること。
・「飢える」→飢える。空腹になる。
6:26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。
人々に褒められることがわざわいなのです。人からの誉を受けたとしても、何の価値もありません。また、そのようなことに喜びを求める人は、神の御心に適うことを求めようとはしません。人に喜ばれることを求めるようになるのです。しかし、それを求めても報いはありません。かつて、先祖たちは、偽預言者に対してそのようにしました。偽預言者は、人に喜ばれるようなことを語るのです。それで、誉を受けるのです。本当のことを語る人は、嫌われます。厳しいことを語る人は、嫌われます。それが真実の愛による言葉であっても、嫌われます。
6:27 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。
6:28 あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。
次に、敵を愛しなさいと言われました。憎む者に善を行うのです。呪う者たちを祝福し、侮辱する者たちのために祈るのです。
そして、これらを行うにあたり、動機付けを与えました。そのことは、三十二節に記されています。「恵み」を受けるからです。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
頬を打つ者には、もう一方の頬を向けるのです。上着を奪い取ろうとする者には、下着も拒まないのです。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。
求める者には、誰にでも与えるのです。奪い取る者から取り戻してはいけないのです。
6:31 人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。
そして、自分が人からしてもらいたいと望む通りに、人にするのです。
6:32 自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。
自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、恵みはないのです。この恵みは、主の好意です。主の目に適うことです。今まで、語られたことは、恵みがあるかどうかを判断基準としています。主に喜ばれ、愛されることが最も価値あることであるのです。自分を愛する者を愛することは、自分の喜びが判断基準となっています。自分を愛して、自分に喜びを与えてくれる人を愛するのです。しかし、そのようなことは、罪人でもしていることで、何の価値もないことが示されています。
それとともに、この恵みは、信仰によって受け取るものですが、三十五節に記されているように、「報い」をもたらします。
・「恵み」→主の好意。信仰によって受け取る時実現する。
6:33 自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。
自分に良いことをしてくれる者たちは、自分にとって喜びです。しかし、そのような基準で、他人に良いことをしたとしても、主からの好意を受けることはできませんし、報いはありません。
6:34 返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。
返してもらうつもりで人に貸すことは、自分に何の損害もないので、貸すことができます。しかし、そこにも、自分が害を受けないという人の喜びが基準となっています。それは、罪人でもできることで、しているのです。しかし、返してもらわなくてもいいとして貸す人は、神様に喜ばれます。
6:35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。(なぜならば)いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
しかし、自分の敵を愛し、彼らによくしてやり、また、返してもらうことを考えずに貸すならば、多くの報いを受けることができます。主は、そのような行いを喜ばれ、愛されるのです。そして、主の目に適ったことをしたことに対して、多くの報いを備えられます。
そしていと高き方である神の子となれます。これは、相続者になることを表しています。聖書では、子どもとなることは、相続者になることを言っています。すなわち、永遠の資産としての報いを受け継ぐ相続人です。主がその相続人にしようとしているのは、すなわち、報いられるのは、神と同じことをする者を愛し喜ばれるからです。その神は、恩知らず者にも、悪人にもいつくしみ深くあられ、有用であり優しい方であるのです。
・「あわれみ深い」→有用な(有益な、慈悲深い)。霊的な面では、神が定義する親切なもの、つまり永遠に有用なものを表している
6:36 あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。
神ご自身が腹の中から嘆きを経験し示す深い憐れみを、人々に同じように示すように求められています。前節の「憐れみ深い」という語とは、原語が異なります。本節の「あわれみ深い」は、神様の性質を示し、事をなされる動機を表しています。そして、前節の「あわれみ深い」は、外に現れた行動がどのような性質のものであるかを表してます。
・「あわれみ深い」→「内臓のような憐れみを表す」 憐れみ深く、神が困難な状況において神に助けを求める人々に対して深い憐れみ(嘆き)を経験する。
6:37 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
これは、人間関係について語られたことです。神の前に全く善悪を判断するなということではありません。裁いて、不義に定めてはいけないのです。自分に不利益なことを受けたとしても、裁かないのです。むしろ赦すのです。
そうすると、自分も相手から裁かれないし、また不義に定められません。また、赦されるのです。
なお、罪を処置しないことを問題視する方もあります。しかし、私たちには不正をも甘んじて受けることが求められているのです。
コリント第一
6:5 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。
6:6 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
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6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」
与えるのです。人は、自分のものを与えることを惜しむ心があります。イエス様のもとに来た金持ちの役人も、財産を貧しい人たちに分け与えることができませんでした。しかし、与えるならば、今度は、人から与えられます。しかも、詰め込み、揺り入れ、盛り上げて気前よく量って懐に入れて入れてくれます。
その時、私たちが使う秤で量り返してもらえるからです。
これらは、人に対してすることですが、神の御心に適ってすることであり、神の栄光のための業なのです。いわば、神にたくさん与えることでもあるのです。神は、喜んで報いてくださいます。
なお、人間関係においても、他の人に対して、どのような思い、態度で接するかによって、人の自分の対する思いや態度は変わってきます。
6:39 イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。
6:40 弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。
兄弟を導く働きについて教えられました。盲人の案内人は、弟子の働きのことを指しています。もし、案内人としての弟子が盲人であったならば、正しく導くことはできないのです。二人とも穴に落ち込みます。
弟子は、訓練を受ければ、自分の師のようにはなれるのです。ですから、弟子が導き手としての働きをするのであれば、十分に訓練される必要があります。そして、師であるイエス様のようになることが必要です。それには、聖書の正しい知識を持つことが必要です。また、その中に生きていることが必要です。私たちは、信仰により、御霊によって、主の働きとしてそのような者に変えられるのです。そのような人こそ、導き手にふさわしいのです。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
6:42 あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。
そして、弟子として、自分を清めることが求められています。そうしないと、他の人の目のちりがはっきりと見えないし、取り除くことが出来ないのです。
他の人の目のちりを取り除こうとする人の目には、実は梁があるのです。人には、そのような偽善があります。人の問題点は見えても、自分自身が見えないのです。
6:43 良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。
6:44 木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。
そして、師である主イエス様のように、実を結ぶことがどういうことかを示されました。良い木でなければ実を結ぶことはできないのです。良い木とは、その人の心の倉に良いものを蓄えています。人の口は、心に満ちていることを話すからです。その人の心がイエス様の教えに整合していなければ、悪い、肉からの言葉を話すのです。そのような人が、良い実を結ぶこともできません。心に満ちていることが言葉に出るように、心に満ちていることは、行いに現れるからです。
6:46 なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。
6:49 しかし、聞いても行わない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした。」
ですから、主を呼び求める者は、主の言われれることを行う者でなければならないのです。そのような者こそ、師に近づくのです。
その手順が示されていて、主のもとに来ることです。これは、信仰により、主を求めることを表しています。もちろん信者のことです。イエス様を「主よ。主よ。」と呼ぶ人のことです。主を主と言い表すことは、主に従う心で主を求めることです。そして、イエス様の言葉を聞くのです。主の言われることを聞き、受け入れるのです。そのようにして、主の言葉は、心に蓄えられます。それがその人の行動基準になるのです。聞くことがいかに大切なことであるかがわかります。マリアに関して語られた時、ただ一つの大切なことと示されたことです。
そのことをたとえで示されました。岩は、イエス様のことです。土台は、教えで、この場合、イエス様の教えです。家は、その人の結ぶ実です。教えに基づく行いです。洪水は、神の裁きです。それによって揺るぐことはありません。確かな良い行いとして評価されます。
一方、土台なしの家は、土台が表すイエス様の教えをもととしない、地面が表す、この世のものを基準に行いをすることを表しています。洪水の時、家は、すぐに倒れてしまいました。しかも、倒れ方はひど物で、見る影もないほどのものです。それは、神の評価に全く耐えないことを表しています。何の価値もないのです。